創世記

創世記1章

2020年7月7日

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神に応える者として造られた人間

創世記1章に書かれていることは、神は人間を招くお方であるということ、そして、人間は神に応える存在であるということです。神と人間との間に対話の関係がある。交わりがある。それが、創世記1章に書かれていることです。

ですから、この個所は、世界がどのように誕生したかを記録したものではありません。この個所が語っていることは、人間が「どのように」誕生したかではなく、人間が「どのような存在として」創造されたのかということなのです。むしろ、ここを直接的に解釈しようとするならば、それは、「人間に呼びかける神」という主題を読み落とすことになります。一字一句その通り理解するというのは、一見聖書を重んじているように見えて、実は、本当に重んじていることにはなりません。ここを単なる記録として読むことは、この個所が最も伝えようとしていることから目を背けることになってしまうからです。

大事なことは、宇宙がどうやって誕生したかではなく、宇宙を含む被造物(神によって造られたもの)がどのような存在として創造されたかということです。また、人間がどのような存在として創造されたかということです。そのことを今日の個所は伝えようとしているのです。

「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった」(3節)。神は語ることをもって世界を創造されたということが書かれています。それは、神が被造物に対して呼びかけるということであり、被造物は応答することが待たれているということです。世界は単に置物として造られたのではありません。また、神は被造物を一方的に、強権的に支配するのでもありません。神は被造物に対して関わりを持とうとされる。そして、被造物は神との関わりを保って存在するものとして造られているのです。言い換えれば、被造物は神との交わりの内に存在するものとして造られているのです。

人間のみならず、宇宙全体が神のもとに回復されることを必要としています。神は「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(28節)と言われました。他の被造物を支配する役割が人間に与えられています。しかし、それは人間に都合のいいように支配するということではなく、神が「見よ、それは極めて良かった」と言われた、創造されたときの美しい本来の姿へと他の被造物を導くということです。そのためには、人間自身が救われて神のもとに立ち返っていなければなりません。人間が救われることによって、宇宙もまた救われる。そのようにして、被造物全体もまた、神のもとに回復されることが待たれる存在なのです。救いは人間だけの問題ではありません。

いよいよ、人間の創造の場面を見ていきたいと思います。26節以下にはこうあります。「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』。神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」。人間は神に似せて造られたと書かれています。聖書では偶像崇拝が厳しく禁じられています。それは、神は人間が造った像なんかに収まるお方ではないからです。神は自由なお方であり、人間が神(の像)を造るのではなく、神が人間を造るのです。しかし、唯一、人間は神の似姿であるとここには書かれているのです。神が創造されたときの、本来の人間の姿を見るならば、神がどのようなお方かうかがい知ることも可能であるのです。

では本来の人間の姿とはどのようなものなのでしょうか。一言で言えば、交わりに生きるものということになります。神は人間を男と女に創造されました。「神にかたどって創造された」という言葉の直後にそのことが書かれています。男だけでは神の似姿とは言えず、女だけでも神の似姿ではありません。男と女で神の似姿なのです。つまり、人間は独りで造られたわけではないということです。関係性の内に、交わりの内に生きるものとして創造されたのです。それこそが「神にかたどって創造された」ということです。神は三位一体の神です。つまり、ご自身の内に父・子・聖霊の交わりを持っておられる神です。そして、語ることをもって創造され、人間と対話をされる神です。つまり、人間をご自身の交わりの内に加えてくださる神なのです。

このように、ご自身が交わりの内に生きられ、さらに、被造物と交わりを持たれる神が、ご自身にかたどって人間を創造されました。つまり、神は、人間自身も交わりの内に生きるものとして創造されたのです。だからこそ、人間は独りで生きるものではなく、男と女に創造され、他者との関係性の内に生きるものとされたのです。

そして、交わりに生きるということは、まずもって神との交わりに生きるということです。わたしたちは神との交わりをいただく。そのことによって初めて、他者との交わりへと出て行くことができるのです。「人が独りでいるのは良くない」(2:18)というのが神の御心であるということを知らないことには始まりません。人間は関係性の内に生きるものとして造られたということを知って初めて、わたしたちは、人と人との交わりが人間にとって本来的なものであることが分かるのです。

神は語ることをもって世界を、そして人間を創造されました。それは、人間に応えることを求めてくださっているということです。神は強制的に人間を従わせたり、操るのではなく、人間が自由な意思によって神に従うことを待ってくださいます。そこにあるのは神と人との対話であり、交わりです。この天地創造の個所が伝えていることは、神が語ることをもって創造してくださったということです。つまり、神が人間に呼びかけてくださっているということ、招いてくださっているということです。それに応えるならば、わたしたちは、神との豊かな交わりをいただくことができます。

招きに応えるとはどういうことでしょうか。神は独り子である主イエスを十字架に掛け、犠牲とし、そのことによって人間の罪を清算してくださいました。この神の愛を見て、主イエスがわたしの犠牲になってくださり復活してくださったと信じること、これが、神の招きに応えるということです。神が招いてくださっている。すでに罪、すなわち神と人間との断絶は取り払われている。後は人間がその招きに応えるならば、神との交わりは回復されるのです。

神が招いてくださっている。人間は本来応えるものとして創造されている。わたしたちは呼びかけに応え、神との交わりに生きたいのです。

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