創世記

創世記6章

2020年7月17日

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1-4節 神の主権に対する反抗

 

1節から4節には、何とも奇妙な物語が記されています。それはネフィリムについての記述です。神の子らが、人の娘たちが美しいのを見ておのおの妻とした。そして生まれたのがネフィリムであり、彼らは大昔の名高い英雄たちであったというのです。

興味深い内容ですが、ネフィリムについて掘り下げてもあまり意味がありません。まず、掘り下げるにしても限界があります。ネフィリムについては、他に民数記13章で、アナク人の祖先と信じられていたということが書かれていますが、その他には記述がありません。そして何より、創世記6章でのネフィリムについての記述は、福音にとって重要なものではありません。ネフィリムがどういう存在か、より詳しく分かったとしても、わたしたちの信仰にそれほど影響があるとは思えません。ここでネフィリムについて書かれている理由は、おそらく、強力なアナク人(とその子孫)、そしてその原因となったネフィリムがどうやって誕生したのかという、伝承に対しての説明のためであり、それ以上ではありません。要するに、それは福音の前では隅の方に追いやられるようなテーマであるのです。だから、聖書はネフィリムについての記述を簡単に終えて、さっさと次の主題へと移っていきます。

1-4節において重要なことは、ネフィリムの説明ではなく、神が主権を示されたということです。

2節にある「神の子ら」というのはおそらく天使のようなものを指していると思われます。この神の子らは、ここでは神の主権に抵抗する愚かな存在として描かれています。ルターは「神の子ら」を、「イスラエルの中の敬虔な人々」と解釈しましたが、それは考えられません。なぜなら、(エノクを除いて)聖書の中で初めて敬虔な存在として登場するのが、この後見るノアであるからです。敬虔な者がいないからこそ、神は心を痛められたのです。

神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻としました。それは、天と地を分けられた神の創造に対する挑戦です。創世記1章には次のようにありました。「神は言われた『水の中に大空あれ。水と水を分けよ』。神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた」(1:6-8a)。このようにして、神は、神がおられる領域と地を分けられました。6:2で神の子らがしていることは、この区別を破壊しようということであるのです。天にいる者が、神の創造の秩序を破壊して地に流入してしまうのです。そして、人間は神の子らと同化していきます。つまり、神の子らと人間が、天と地の境界を壊している。神の創造に対して反抗している。それがここに書かれていることです。天と地の被造物が、神を否定している。自分たちが境界線を引くことができる神であるかのように振舞っているのです。

それに対して神は、ご自身が神であることを示されます。神の子らと人間が被造物であることをはっきりとさせられます。それは、人の一生を120年とすることによってです。800年、900年生きていた人間の一生が制限されます。命は神から来る。ただ神の息によってのみ、人は生きるものとなる。神はそのことを改めて示されます。神は主権をお示しになるのです。

しかし、120年というのは決して短い年月ではありません。神を否定し、神のように振舞おうとした人間を神はなおも愛されます。120年の長命という祝福がなおも与えられているのです。

 

洪水物語を通して語られる福音

 

洪水の物語は、明らかに他の宗教的伝承から借りてきたものです。洪水について書いているのは聖書だけではありません。ここで重要なのは、洪水そのものではなく、洪水の物語を通して聖書が語っている独自の福音であるのです。それは、神が心を変えてくださったということです。洪水の前も後も、主に背くことを止めない人間に対し、神が「ことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)と語ってくださった。この神の心の中の変化が、洪水物語の主題です。

ですから、洪水が本当に起きたかどうかということだけに興味が集中してしまうのは本末転倒です。アララト山の上に箱舟の証拠を見つけようとすることは、その労力に見合った成果をもたらしません。もし証拠が見つかったとしても、(ネフィリムの場合と同じで)わたしたちの信仰にとって重要ではないし、影響を与えません。重要なことは、洪水を信じるかどうかではなく、神が人間の反抗に対してもはや滅ぼすのではなく忍耐し続けると語ってくださっているというということであり、わたしたちがその福音を信じるかどうかということです。その福音を信じるための材料は既に揃っており、新たに箱舟の残骸を掘り出す必要はありません。神は既に語ってくださっているからです。重要なことは洪水という共通の伝承ではなく、聖書が語る独自の福音にあります。

 

心の痛みを引き受け耐え忍ぶことを選ばれた神

 

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(5-6節)。人間が神に背き続けることに対し、神は心を痛められました。洪水は神の怒りと報復ではありません。そうではなく、神の悲しみとけじめであるのです。神は人を造ったことを後悔されました。創造によってこのような悲惨な状況が生まれたことを後悔し、決着をつけなければならない、創造を終わらせなければならないと決意されます。悲惨な状況とは、創造主が語り、被造物が応えるという創造の本来の目的が達せられていない状況です。そのような悲惨な状況に対し、神はすべてを拭い去らなければならないということを、悲しみと痛みの中で決心されます。神は人間を愛し、招きに応答することを待ち続けておられたため、それが叶わず人を滅ぼさなければならないということは、神ご自身の悲しみであり痛みでありました。人間に対する怒りと報復ではなく、創造の結果生じている人間の悲惨な状況に対し、神が責任を取ろうとされる。それが洪水であるのです。現状の責任は本来人間の背きにあります。しかし、神は「後悔」することで、ご自身の創造に原因があると言われます。人間が負うべき責任をご自身が引き受けてくださるのです。神は人間と敵対するのではなく、人間の側に立っておられます。この洪水においても、神は人間のために招き悲しむ神であるのです。

ここまで差し迫った状況において、初めて神に応える人間が登場します。それがノアです。彼は聖書において初めて登場する、神の招きに対して応答し神との交わりに生きる人間です。(非常に短く書かれているエノクは例外です)。ノアは初めて描かれる信仰者です。

神に応える人間がノアしかいなかったということからも分かるように、人間の応答は普通に考えれば期待が薄いものです。しかし、神は人間の応答を忍耐をもって待ち続けるということをついには決意してくださるのです。人間を愛するがゆえに、信じ招き続ける。支え導き続けるとうことを心に決めてくださるのです。

神が心を変化させてくださった。心の痛みを引き受けてでも、耐え続けると約束してくださった。そのことが6-9章の洪水物語を通して語られます。その福音を聴いていきたいと思います。

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