創世記

創世記3章

2020年7月10日

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神は人間が自由な意思によって神に応えることを期待しておられるということを、2章で読みました。わたしたちは応えることもできるし、背くこともできます。しかし、それは、どちらを選んでも良いということではありません。神に繋がっていなければ、人間は生きることができません。神の息によらなければ、土の塵は生きる者にならないのです。人間は生きるために、なんとしても神に応えなければなりません。それは決して神のエゴではなく、人間自身の命のためです。

3章では、人間が自らの意志で神に背いたため、命の源泉である神とのつながりが全く途切れてしまいそうになります。本来であれば、人間はこの時点で死んでしまうことになります。しかし、男と女は生きています。神は、背く二人をなお生かすのです。それは、人間を生かそうとされる神の懸命な働きの結果です。この楽園追放の物語は、罪と罰の話として理解されがちです。悪いことをしたから遊んで暮らせる楽園を追い出されたのだという、因果応報の話だと思われがちです。しかし、これはそのような懲罰の話ではありません。もし因果応報であるならば、二人がしたことに対する報いはむしろ死であるはずです。しかし、二人は死にません。それは、命から離れようとしてしまった二人を、神が必死の思いで生かされるからです。あえて「必死」という言葉を使うのは、主イエスはまさに十字架において、ご自身の死をもって人間を生かす神であるからです。ですから、この個所は、神の怒りと懲罰の物語ではありません。そうではなく、神の苦悩と救済の物語なのです。

蛇が女を誘惑し、女は善悪の知識の木から取って食べた。また、女が渡したので、男も食べたということが書かれています。ここで蛇が登場することについては、特別な意味があるとは思えません。蛇を性的なシンボルとみなし、堕罪を性の問題と結び付けようと試みられる場合があるようですが、そのようなことをこの個所は語っていません。女が性的問題を起こしたということは書かれていません。そうではなく、女、そしてそれに続いて男が、それぞれ、自分の意志で禁じられた木から取って食べたということだけが書かれています。つまり、ここで起きている問題は、性的逸脱などではなく、人間が神に従わないことを選んだということなのです。上記のような飛躍した読み方は、堕罪の責任を女性に帰そうとしている点でも問題です。誘惑したのが蛇であったということは重要ではありません。重要なことは、経緯がどうであれ、二人は、それぞれが、自分の手で取って食べたということです。つまり、自らの意志で主に背いたということが重要であるのです。

二人は実を食べると、自らが裸であることを知り、いちじくの葉で腰を覆いました。その日、主が歩く音が聞こえると、二人は主を避けて、園の木の間に隠れました。主はアダムを呼ばれました。「どこにいるのか」(8節)。彼は答えました。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(10節)。

罪が人間を神から隔てるものであるということが、ここを見るとよく分かります。ここでアダムはかろうじて神と会話をしますが、それすらも、神がアダムを探し出し、呼んでくださるから実現したことであるのです。罪によって、神から隠れることしかできない人間を、神は探し出し、呼んでくださるのです。

神が「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」(11節)と問われると、男は女に、女は蛇に責任をなすりつけようとしました。男は言います。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(12節)。よく見ると、男は女に責任転嫁するだけでなく、こともあろうに、神のせいであるとまで主張しています。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」と彼は言うのです。「神が女なんて造らなければ自分は失敗せずにすんだのに」とでも言うのでしょうか。しかし、2章で見た通り、エバはアダムにとって自分に合う唯一の「助ける者」です。神はただ彼のために彼女を造って与えてくださったのであり、彼はそれを心から喜んでいました。つまり、それはこの上ない恵みでした。しかし、アダムは今やそれを理解しません。罪は神から与えられている恵みさえ見えなくさせてしまうのです。人間は、神から離れているときも、神から恵みをいただいていることには変わりありません。生かされていること、食物や寝床が与えられていること、助け手が与えられていること。わたしたちが神を信じられなくなっているときにも、神はそれらを与え続けてくださっています。ただ、信じられないとき、それが神からの恵みであることが分からなくなってしまうのです。アダムのように、恵みどころか呪いであるかのように誤解してしまうことすらあるかもしれません。このように、神の愛に対して目を曇らせてしまう力、人を神から遠ざけてしまう力が罪なのです。

男は女に、女は蛇に責任転嫁を試みますが、それは不可能です。すでに申し上げた通り、彼らは自分で取って食べたのです(6、7節)。

16節に「お前は男を求め、彼はお前を支配する」とあります。また、20節には、アダムが女をエバ(命)と名付けたということが書かれています。ここでの名付けは、神が言われた通り、男が女を支配したということを意味しています。まさに、2章19節以下で、人が支配する者としてあらゆる生き物を名付けたように、ここで男は女を名付けるのです。しかし、それは不当なことです。ここで起きている男による女の支配は、罪の結果生じた歪んだ現象であるのです。ですから、2章の学びでも記した通り、創造物語を引用して、女性に対する男性の優位を主張することは決してできません。神の創造において、女は人間の創造の成就です。男と女の両者をもって初めて神の似姿、神の像が完成したのです。神が造られた男と女の間には、支配する関係はありませんでした。それが生じたのは3章以降、罪が入り込んだ以降のことであるのです。

では、楽園追放後の人間は支配し合う他ないのでしょうか。そのようなことはありません。罪が生じた後も、人間には「良いこと」を選ぶことが可能なのです。そのことは4章で触れたいと思います。

二人はエデンの園から追い出されることになります。しかし、その前に神は二人に皮の衣を作って着せられました。それは、これを着ることによって、二人は畏れ多くも神の御前に出ることができるということです。それまでは、二人はいちじくの葉を腰にあてがうことしかできませんでした。そして、神から隠れることしかできませんでした。その二人に、神は衣を着せ、御前に出られるようにしてくださいます。人間が自分ではできないことを神はしてくださったのです。神の御前に立つ。神を信じる。それは人間の力によってできることではなく、ただ、探し出し呼んでくださる神によって、わたしたちに可能なことであるのです。

自ら神に背き、命から離れようとした人間、本来であれば死ぬところであった人間を、神は懸命に生かしてくださいます。神との関係が切れそうになった人間に衣を着せ、繋ぎ止めてくださいます。それはアダムとエバだけの物語ではなく、神と人間の物語です。神は、まさに死に支配されていた人間を、独り子を犠牲にすることによって、命へと取り戻してくださったのです。ここに描かれている、人間を生かそうとされる神の愛は、まさしくわたしたちに向けられているものであるのです。

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