創世記

創世記17章 神との契約に生きる人間

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創世記17章 神との契約に生きる人間

 

神はアブラハムに「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする」(6節)、と言われ、またイシュマエルについても「祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる」(20節)と約束されます。これは、人間の創造のときの「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1:28)という言葉の語りなおしです。アブラハムは、新しく創造された人間です。ノアの洪水の後、神は、人間が罪人であることに変わりはないにも関わらず、二度と拭い去ることはしないと約束されました。そして、創造の言葉を語りなおし、再び人間が神との関係において生きることができるようにしてくださるのです。

割礼は、神から与えられた契約のしるしです。つまり、それによって神の約束を思い出すためのものです。神が約束してくださり、将来それを果たしてくださると確認するためのものです。ですから、救いを得るための手段ではありません。アブラハムは信仰によって義と認められました(15:6)。割礼はその後に受けるのです。

アブラハムはすでに主を信じています。にもかかわらず、彼は主の約束を鼻で笑います。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が埋めるだろうか」。わたしたちもそうですが、信仰者もつねに信仰を揺るがす誘惑にさらされています。ここではイシュマエルの存在がアブラハムにとっての誘惑になりました。彼はもっとも望んだ形ではありませんでしたが、女奴隷ハガルによってすでに子を得ました。それが主の約束の実現を待望する気持ちを鈍らせました。以前であれば、アブラハムは唯一の希望である神の約束にすがりついたかもしれません。しかし、今や彼は「イシュマエルが御前に生き永らえますように」と答えます。

それに対し神は、「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」と言われました。

神はわたしたちに永遠の命を約束してくださいました。主イエスによってすでに成し遂げられた贖いを信じるならば、決して死ぬことはなく、終わりの日に復活し、神との永遠の交わりにあずかることができるという約束です。

アブラハムは神の約束を実現不可能だと考え、「きっとこういう意味だったのだろう」と自己解釈し、イシュマエルをもうけました。

わたしたちにも福音を自己解釈し、捻じ曲げようとする誘惑があるのではないでしょうか。「死者の復活というのはあり得ないけど、それは何かの比喩でこういう意味だったらあり得るのではないだろうか」と考えたくなる誘惑です。

たしかに復活というのはわたしたちの理解を超えています。しかし、神が与えてくださる信仰によって、わたしたちはそれを信じて待つことができます。神が御言葉によってそれが確かであると示してくださるからです。創世記17章に書かれていることは、神にできないことはないということ、そして、神は約束を与えてくださるということです。わたしたちは神からいただく信仰によって、神の約束を待つものとなりたいのです。

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