ヨシュア記

ヨシュア記1章10-18節

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11節「宿営内を巡って民に命じ、こう言いなさい。おのおの食料を用意せよ。あなたたちは、あと三日のうちに、このヨルダン川を渡る。あなたたちの神、主が得させようとしておられる土地に入り、それを得る」。

いよいよ、イスラエルはヨルダン川を渡りカナンに侵入します。ただし、ルベン、ガド、マナセの半部族はヨルダン川を渡った西側ではなく、ヨルダン川の東側に定住をします。そこが彼らの割り当てられた土地です。ヨルダン川の東側が劣っているということではなく、ヨルダン川の東側も紛れもなく約束されたカナンの土地です。

半部族というのは、マナセ族は二つに分かれて別々の場所に定住するからです。マナセの片方の半部族は東に、もう片方の半部族は西に定住します。

13節「主の僕モーセが命じた言葉を思い起こしなさい。彼はこう言った。『この土地はあなたたちの安住の地、あなたたちの神、主が与えてくださったものである』と」。

「この土地は主が与えてくださったものであることを思い起こしなさい」ということが再び語られます。このことはヨシュア記で繰り返し語られることであり中心テーマです。ヨシュア記がまとめられたのは、バビロン捕囚の時代です。ヨシュア記は、バビロンに連れて行かれ、捕らわれ、意気消沈していた人々に対して、「カナンは主が与えてくださったものだったのだ」ということを思い起こさせるために書かれているのです。

また、「安住の地」と書かれています。安住、安息というのも、ここでは重要なテーマです。主に従うならば、わたしたちは安息を得ることができるのです。だから、バビロンにいる人々も、主に立ち返るならば、再び安息を得ることができます。ヨシュア記はその希望をこそ語っているのです。

14節「モーセがあなたたちに与えたヨルダンの東の地に妻子と家畜を残し、あなたたち、勇士は皆、隊伍を整え、同胞たちに先立って川を渡り、彼らを助けなさい」。

ルベン族、ガド族、マナセの半部族の三つの部族(正確には二部族半)は、すでにヨルダン川の東側に住んでいますが、他の諸部族がヨルダン川の西側に入るにあたって他の部族を助けなければならないということが言われています。むしろ先陣を切って他の部族が定住できるように尽くさなければなりません。それはなぜかというと、彼らが住んでいるヨルダン川の東側が自分で得たものではなく、神から与えられた土地だからです。13節にあった通りです。主はカナンをイスラエルの十二部族に与え、それを割り当てられたのです。だから、ルベン、ガド、マナセの半部族は、自分のことだけではなく主による土地の割譲が完了するように努めなければならないのです。主による割り当てが無ければ、自分たちへの割り当てもないということです。

15節「主が彼らをも、あなたたちと同じように安らかに住まわせ、あなたたちの神、主が与えられる土地を、彼らも得られるようにしなさい。

ヨルダン川の東側は神から与えられたものです。だからこそ、ヨルダン川の西側の他の部族も神からのものを受け取ることができるようにしなければなりません。わたしたちに置き換えると、信仰についても同じことであると思います。わたしたちは主イエスを信じる信仰によって救いにあずかることができました。これを自分で得たものだと思っていたら、自分だけで独占すればよいという考えになってしまうかもしれません。しかし、信仰は自分で獲得することはできません。信仰は神から恵みとして与えられるものです。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです(Ⅰコリント12:3)。救いは神から与えられたものです。だから、わたしたちは、他のすべての民も神が与えてくださっている救いを受け取ることができるように努めなければならない。つまり、伝道しなければならないのです。それは、ルベン、ガド、マナセの半部族が、既にカナンの土地にあずかりながら、他の部族があずかるために働いたのと同じことなのです。

ルベン、ガド、マナセの半部族は、他の部族たちも同じく「安らかに住む」ことができるように働きます。つまり、安住のために働きます。このように、主に従うとき、イスラエルには安住、安息があるのだということがここで言われていることです。

しかし、イスラエルの安住と引き換えに、先住民は土地を追われ平穏な暮らしを失うのではないかと思われるかもしれません。この安住というテーマを正しく理解するためには、これがバビロン捕囚の時代に編纂されたということを踏まえることが必要です。当時、ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、人々はバビロンに連れて行かれ捕らわれていました。そのとき、イスラエルの方こそ、まさに土地を追われ平穏な暮らしを失った側だったのです。その捕囚の民に対して「主に立ち返るならば、あなたがたは再びカナンに帰ることができる」という希望を語ることこそヨシュア記の目的であるのです。ヨシュア記は一読すると侵略を推奨しているように見えるかもしれません。しかし、イスラエルはこれから侵略するのではありません。これから帰還するのです。その時代的背景を踏まえるとき初めて「安住」というテーマを理解することができます。

わたしたちは、バビロンの捕囚の民と自分自身を重ねることができます。さまざまなことで悩むとき、「主と共にいたとき、あなたは安らいでいたではないか」ということを、ヨシュア記は思い起こさせてくれます。そして、主に立ち返り、再び安息にあずかるものとなるように、わたしたちを招いてくれるのです。

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