ヨシュア記

ヨシュア記1章1-6節

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モーセの後継者としてヨシュアが任命される場面です。主がヨシュアをお立てになります。主は、ご自身が所有しておられるカナンに民を導き入れる者としてヨシュアを任命されます。ヨシュアは、自分のリーダーとしての並外れた能力によって民を導くのではありません。ヨシュアは、カナンを与えてくださる主の御力に信頼する指導者なのです。

だから、ここには三度「強く雄々しくあれ」という言葉が出てきますが(6,9,18節)、これは心と身体を鍛えて戦いを乗り切れという意味ではありません。そうではなく、主に信頼するから、あなたは強く雄々しくあることができるという意味なのです。自分でカナンを手に入れるのではない。カナンはもともと神のものであり、神は既にそれを与えてくださったのです。だからイスラエルは安心することができます。この、カナンを与えてくださるのは神であるということが、ヨシュア記の中心的な考えであり、ヨシュア記を通して何度も繰り返し語られていることです。

1節には、「主の僕モーセの死後」と書かれています。「主の僕」というのは、人間に与えられる最高の称号です。主に従うことが人間にとって最も尊いことであり、それ以上はありません。人間が神のように振舞ってはならないのです。また、自分を王のように考え、自分自身に従う、誰の指図も受けないというのも、一見立派なように見えるかもしれませんが、実は主の僕よりも劣る存在なのです。

ヨシュアにはこの「主の僕」という称号は使われません。それはモーセにだけ使用されます。申命記34:10に「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」とあるように、モーセは比類なき預言者であるのです。

モーセは主に従って律法(トーラー)を民に伝えました。その伝達はモーセの死と共に完了しました。それは、カナンで生きるために必要な物は不足なく神が与えてくださったということです。これ以上新たなトーラーが与えられる必要はありません。だから、モーセのような預言者は他にはいないのです。

ヨシュアはモーセと同じ「主の僕」ではありません。しかし、モーセの後を継ぎ、モーセを通して神がお与えになったトーラーに民を従わせる役目を負っています。ヨシュアもやはり重要な使命を神から与えられているのです。そして、トーラーに従うということは、初めにカナンを獲得するという具体的な行為を伴います。それは、神の律法に応えるというイスラエルの信仰的な応答なのです。ヨシュアはまず、カナンに入ることにおいて、イスラエルが主に応えることができるように、民を先導します。それがヨシュアの役割なのです。

2節と3節にはこのようにあります。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」。

この3節にある、「あなたたちに与える」という言葉は、もともとのヘブライ語を見ると完了形で書かれています。つまり、「与えた」とも訳すことができる言葉です。カナンはまだ手に入れていないものをこれから入手し民に与える、というものではないのです。それはもともと神が持っているものであり、神が既にイスラエルに与えてくださったものなのです。まだイスラエルがそこに住んでいなくても、所有者である神が「あげる」と言ったからには、カナンは既にイスラエルのものなのです。

5節と6節にはこう書かれています。「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかるものはないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせるものである」。

一生の間、行く手に立ちはだかるものはないと主は言われます。神に戦いを挑む無謀な者などいないのです。だから、主が共にいてくださる限りわたしたちに恐れはありません。そして、主は共にいると約束してくださいます。あなたを見放すことも、見捨てることもないと言われます。つまり、神の側からわたしたちを離れることは絶対にないということです。神がわたしたちと共におられない状況がもしあるとするならば、それは私たちの方から神を離れたときだけです。人間はときに神を見放し、神を見捨てるのです。しかし、神がわたしたちを見放したり見捨てることは決してありません。

そして、その約束の後に「強く、雄々しくあれ」と言われています。わたしたちが強く雄々しくあることができるのは、神が共にいてくださるという確かな約束があるからなのです。その安心があるから、堂々としていることができるのです。自分を鍛えて強く雄々しくあろうとするのではありません。自分の内側から強さを絞り出すのではありません。確かさは神の側にあるのです。

わたしたちの身の回りには時には困難なこともあります。絶望と呼びたくなるようなこともあります。しかし、それにもかかわらず、わたしたちは救いを既に得た者として安心することができます。強く雄々しくあることができるのです。なぜなら、神は勝利をすでに得ておられるのであり、それをわたしたちに与えてくださったからです。

イスラエルがこの時点で既にカナンを得ているのと全く同じように、わたしたちは勝利を既に得ています。困難な世の中にあっても、いつも神が共にいてくださることを喜び、強く雄々しくありたいと思います。

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