ヨシュア記

ヨシュア記1章1-4節

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「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」(1:3)

今日からヨシュア記の学びに入ります。モーセ五書、トーラーが終わって、ヨシュア記から、カナン侵入、土地の分配、士師時代、王国時代と、歴史が語られていくことになります。しかし、大事なことは、これがただの歴史書ではなく、一貫したメッセージを語るための書物であるということです。出来事を正確に記録することではなく、信仰を伝えるために書かれているのです。その一貫したメッセージとは、神がカナンの地を与えてくださるのであり、主に依り頼むかぎり、イスラエルはそこに留まることができるということです。反対に、主を忘れるならば、そこに住むことができる根拠は一切無いということです。この一貫した主張によって書かれているのが、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記です。これらの書は、一人の歴史家によってまとめられたと考えられています。そして、その編纂の土台となったのが、主がカナンを所有しておられ、それを与えてくださるという申命記の思想です。また、カナンを失うならば、それは主に背くからだという申命記の思想です。だから、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記は、申命記的歴史と呼ばれています。また、それをまとめた人物は、「申命記的歴史家」と呼ばれています。

つまり、これからヨシュア記を読んでいきますが、これは申命記と密接に結びついた書物であるのです。

これは、御言葉を語るための書物であり、ただの歴史書ではありません。だから、ヨシュア記は、聖書の区分では、実は預言者に分類されています。旧約聖書は、トーラー(律法)、預言者、諸書の三つに区分されます。トーラーとはモーセ五書のことです。そして預言者は、前の預言者と後の預言者の二つに分けられます。前の預言者とは、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記のことです。一方、後の預言者とは、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ホセア書、ヨエル書などの預言書のことです。そして、諸書とは、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの言葉などの文学や、歴代誌、エズラ記、ネヘミヤ記などの歴史書のことです。

例えば、歴代誌は歴史書、諸書として分類されています。それに対して、ヨシュア記から列王記までは「前の預言者」に分類されています。この違いは一体何なのでしょうか。それが、先ほど申し上げた「申命記の思想に基づき一貫したメッセージを訴えている」ということなのです。

もちろん、歴代誌も、聖書の一部であり、単なる歴史書とは違います。歴代誌も御言葉を語るものです。しかし、歴代誌は、やはり、主がなされた出来事を記すということに重点を置いています。それに対して、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、この四つは、歴史よりも、主に立ち返れというメッセージを伝えることに主眼を置いているのです。

というのも、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記が書かれたのは、バビロン捕囚の時代なのです。これらの書物は、読む人に、「自分たちがなぜ土地を失ったのか」を思い起こさせるために書かれています。そしてまた、「主に立ち返れば、再びカナンに帰ることができる」という希望を抱かせることを目的としているのです。このように、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記は、人々を悔い改めと信仰に導く言葉です。だから、この四つの書物は預言書なのです。

この書物が、出来事を正確に記録することを、そもそも目指していないということは重要です。

わたしたちは、ヨシュア記を読むときに戦いの描写や、「滅ぼし尽くした」という言葉につまずきそうになります。しかし、これらの出来事がそのままに起こったと信じる必要はありません。むしろ、歴史学的に見れば、例えばエリコの町はイスラエルがカナンに侵入した時点で既に廃墟に近い状態であったと考えられています。また、アイを占領したときも、ヨシュア記には大規模な戦闘があったように書かれていますが、アイは小さな町に過ぎなかったとも言われています。実際にはイスラエルは徐々にカナンに定着していった可能性があります。

このように言うと、聖書を軽んじているように聞こえるかもしれません。しかし、本当に大事なことは、聖書が意図していることを聞きとるということです。わたしたちはヨシュア記の意図を汲み取らなければなりません。つまり、わたしたちは自分をバビロニアに囚われているイスラエルに重ねて、カナンは主が与えてくださったものだったのだと思い出すべきなのです。

エリコの城壁が崩れたことをそのまま信じることは、ヨシュア記の意図するところではありません。そうではなく、「エリコを与えてくださったのは主である」ということを思い出させることが目的です。壁の出来事をそのままに信じなくても良いと言うと、「では、主イエスの復活も信じなくてもよいのか」と思われるかもしれません。しかし、もちろんそうではありません。主イエスの復活については、まさにそれをそのまま信じることこそが福音書の意図なのです。ですから、エリコの壁と復活をごっちゃにしてはいけません。

わたしたちは、エリコの壁の出来事から、「エリコを与えてくださったのは神である」というメッセージを聞き取ればよいのです。それが聖書に忠実に読むということです。反対に、文字通り信じるということにこだわり過ぎてヨシュア記本来の趣旨を見失うならば、それこそ聖書に忠実ではないということになってしまいます。例えば、壁の証拠を見つけようとして遺跡調査に夢中になるなどした場合、それは「見なければ信じない」ということに他ならないのではないでしょうか。わたしたちは、御言葉を聞くだけで、「エリコを与えてくださったのは神である」と信じることができるのです。

このように、「滅ぼし尽くす」ということが、ここに書かれている通りに行われたと信じる必要はありません。「滅ぼし尽くせ」とは、これからのヨシュア記の学びで改めて触れることになりますけれども、主から離れさせる誘惑を取り除けという意味です。確かに、いくつかの戦闘はあったかもしれません。そして、それに対してわたしたちが、嫌悪感を覚えるのは仕方のないことだと思います。そうした戦いを正当化する必要はありません。ヨシュア記自体もその正当化を目的とはしていません。自分たちを強者として、自分たちの暴力を正当化しているわけではないのです。

戦えという命令を見ると、では追い出された人たちは一体どうなってしまうのだろうと思われるかもしれません。しかし、実は、これを読んでいるイスラエルこそが「追い出された者」であるのです。イスラエルはこれを、故郷を追われ、バビロニアに囚われている状態で読むのです。つまり、ヨシュア記は、「これからすべてを滅ぼし尽くせ、容赦してはならない」ということを教えているのではなくて、「カナンを与えてくださったのは主であったのだ。だから、主に立ち返るならば、あなたは必ずそこに帰ることができるのだ」という希望を語っているのです。希望を語っているという意味で、ヨシュア記はまさしく預言書であるのです。

ヨシュア記にはつまずきとなる戦いの描写が多く出てきます。だからこそ、それを読む前に、今申し上げた背景、ヨシュア記が慰めと希望を語る書であるということを知ることが大事なのです。これから毎週、ヨシュア記を1章ずつ読み進めていきます。ヨシュア記に含まれている(戦いの描写という)つまずきの石につまずくことなく、ヨシュア記が本来語っている豊かな慰めと希望をしっかりと聴きとっていきたいと思います。

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