申命記

申命記34章

2021年10月26日

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申命記最後の章です。モーセは、カナンの地を目前にして生涯を終えることになります。なぜ、そうならなければならなかったのか。申命記にはいくつか説明が書かれています。しかし、それですべてが説明されているわけではありません。結局のところ、なぜか分からないというところが残されているのです。人間には分からないが、神が深い計画の下、そのようにお定めになる。それに対して人間は分かるから委ねるのではなくて、分からなくても神を信頼して任せるのです。モーセもここで、自分の命を神にゆだねているのです。

 

1-3節で、神はモーセをピスガの山の山頂に立たせ、肥沃な地、カナン地方を全て見渡せるようにされました。

しかし、そのように広がる豊かな土地、モーセ自身夢にまで見たカナンを目前にして、モーセはそこに入ることができずに、ここで死ななければならないのです。

4節で主はモーセに言われます。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない」。

モーセがカナンに入ることができない理由とは何でしょうか。申命記は、全く異なる二つの説明をしています。1:37節にはこのようにあります。「主は、あなたたちのゆえにわたしに対しても激しく憤って言われた。『あなたもそこに入ることはできない』」。

ここで言われているのは、イスラエルの民がカナンを偵察したときのことです。主がそこを与えると言われているのに、彼らはそこの住民が強そうであることに恐れをなし、上って行くことをしませんでした。つまり、主を信頼しませんでした。それどころか、彼らは「主は我々を憎んでアモリ人の手に渡そうとしておられるのだ」などといって主をののしりました。

このように、民の背きのために、モーセはカナンに入れないのだということを、1:37は言っています。

しかし、32:51-52では、全く違う説明がなされています。「あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない」。

ここで言われているのは、民数記20章での出来事のことです。ツィンの荒れ野で、民は飲み水が無かったので、徒党を組んでモーセとアロンに対して反抗を起こしました。

そこで、主は、モーセに、「岩に向かって水を出せと命じなさい」とお命じになりました。しかし、それに対してモーセがしたことは、ただ命じるのではなく、岩を杖で二回打つ、ということをモーセはしたのです。

これはつまり、自分の力で水を出そうとしたということです。主に依り頼むのではなく、自分に頼るということをモーセはしたのです。

それゆえ、民数記20:12にもこのようにあります。主はモーセとアロンに向かったこのように言われます。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」。

ここで言われていることは、モーセは、主に対する自らの背きのためにカナンに入ることが出来ないということです。

このように、民のせいなのか、モーセのせいなのか、申命記は二通りの説明をしており、どちらなのかははっきりしません。それは、結局のところ、人間にはわからないということです。また、これをしたからこうなるという因果応報の世界ではないということです。神は、人間にとって妥当なことしかしてはいけない存在ではありません。神は全く自由に働かれます。

だから、今回のモーセの死についても、人間はある程度までその原因を考えることができますが、最終的には、神が自由にお定めになるのです。そして、そこには人間には究め尽くすことができない、解明することができない、深い神のお考えがあるのです。

 

モーセがカナンに入れないのはあまりにも残酷だと思われるかもしれません。確かに、今申し上げたように、完全に納得できるものではありません。しかし、神はモーセを憎んでいるわけではなく、愛しておられるということが、今日の個所を読むと分かります。

まず、神はモーセをピスガの山頂に立たせてカナンを見せてくださいます。そこに入ることはできませんが、これからイスラエルがそこに入っていく、約束が実現するということを確信してモーセは生涯を終えることができます。自分の役割は果たされたのだと、安心して死ぬことができます。神はモーセを安心させてくださったということです。

そして、5節でモーセが死んだということが書かれていますが、主ご自身がモーセを葬られたということが書かれています。

聖書では、遺体が葬られないということが最大の呪いとして描かれています。呪いとは、神から見捨てられるということです。

例えば、サウル王が死んだとき、ペリシテ軍はその死体を見つけ、城壁に貼りつけてさらしました。しかし、カデシュの住民が出かけて行って、命がけでその遺体を回収し、丁重に葬ったのです。それはつまり、サウルが、カデシュの住民のおかげで、神から呪われるという最大の汚名だけは避けることができたということです。

また、主イエスが十字架で死なれたとき、日が沈んで安息日になってしまう前に、アリマタヤのヨセフが遺体を引き取って急いで埋葬したというのも、主イエスのお身体が木にかけられたままにならないようにするためです。

それはただ、いたたまれないというだけの理由ではなく、呪いという考えと結びついているのです。このように、遺体を葬るというのはとても大事なことなのです。

そして、ここでは、それを神が自らモーセのためにしてくださっているのです。つまり、神はモーセのことを見捨てるどころか、主と共にいられるようにしてくださっている。それがこの個所なのです。ここから、主がモーセを深く愛しておられるということが分かります。

そもそも振り返れば、主はエジプトでエジプト人を石で打ち殺して逃亡者となったモーセを守られたのです。主は、モーセが正しいから守ったり、召し出したりしたのではありません。モーセの悪い行いにも関わらず、主はモーセを愛されたのです。今日の個所でも、モーセは背きのためにカナンに入れませんでしたけれども、主はモーセを愛しておられるのです。

 

モーセがここで死ぬことには、民とモーセが背いたということ以外にも何か理由があることでしょう。つまり、単なる罰ではなく、やはり、主の深いお考えがあってあえてこのようにされているのです。それを全て知ることはできませんが、一つ言えることは、モーセの生涯とともに、トーラー、つまり律法がここで閉じられているということです。

10節には、「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」。と書かれています。

モーセの役割は、神からのトーラーを民に伝えることでした。そして、このトーラーは新たに書き加えられることはありませんでした。

それはつまり、カナンに入るために必要な準備は、全て神が整えてくださったということです。だから、ここで一つの区切りがつけられるのです。

創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記。この五つはモーセ五書と呼ばれます。また、ユダヤではこのモーセ五書のことをトーラーと呼びます。

モーセの死と共に、モーセ五書、トーラーが閉じられているのは偶然ではありません。神は必要を全て整えてくださった。だから、民は安心してカナンに入っていくことができるのです。

それは、もう語り終えたから、神はカナンでは新しく何も語ってくださらないということではありません。ヨシュアも、もちろん主から語られることになります。また、契約の箱が常に民の真中にあり、また、移動する時には先頭を進むというのは、その中に納められている神の言葉が死んだものではなく生きた言葉であるということです。神は生きておられ、カナンにおいてもイスラエルとともに歩んでくださいます。

しかし、カナンで生きるために必要なトーラーは、モーセを通して全て語り終えられたのです。

モーセは自分の使命を全うして、今安心して自らの命を主に委ねることができたのです。

このように、モーセの死には、単なる罰ではない意味が込められています。

わたしたちも、自らの人生、命を、わたしたちを愛してくださる主に委ねることができます。時にはどうしてなのかわからない場面もあるかもしれません。しかし、そのようなときも、愛と深い計画によって最もよいことをなしてくださる主に信頼し、自らを任せるわたしたちでありたいと思います。

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