ヨシュア記

ヨシュア記1章7-9節

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7節には、「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」と書かれています。

これは、一見すると、律法を守れば必ず人生が上手くいくというような、ご利益宗教のようなことを言っているように見えます。しかし、そうではありません。

まず第一に、イスラエルは律法を守るから報酬を受け取るのではありません。7節は、カナンを与えるという約束の後に書かれています。そして、カナンを与えるというのは、これからのことではなく、もともとの所有者であられる主が既に与えてくださったのだということは、前回記した通りです。つまり、イスラエルは恵みを得るために律法を行うのではなく、恵みを与えられた者として律法を行う。そして、そのことによって主に応えるのです。

わたしたちにとっても同じです。わたしたちは救われるために律法を行うのではなく、既に救っていただいた者として、律法を通して主に応えるのです。「律法とは古い契約であり、もう不要なものだ」と思われる人もいるかもしれません。教会の中では、しばしばそのように律法に対して不当に低い評価が下されることがあります。しかし、主イエスは律法を破棄するためではなく完成させるために来られました。主イエスが言われた「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:28-31)という言葉は、申命記からの引用です。主イエスが律法を行いなさいと言われていることが分かります。ただ、文字通り機械的に守りなさいということではありません。律法を守り、それによって救われようとすることは、一見律法を行っているように見えて、実は律法を行っていないことになるのです。なぜなら、そのとき律法本来の目的から逸れているからです。律法本来の目的は主に応えることです。しかし、律法を守りそれによって救われようとするとき、人は神に応えるのではなく、自分の正しさを誇るために律法を用いているのです。主の救いを忘れ、自分で自分を救おうとしています。それは律法の役割をはき違え、むしろ律法を軽んじていることになります。律法の目的は、主イエスが言われた二つの掟に集約されます。だから、それを行うとき、人間は律法を全うしたことになるのです。このようなわけで、キリスト者にとっても主に応答するための律法は大事なものなのです。

話が逸れましたが、7節がご利益主義を説いているわけではないという理由の二つ目をお話しします。一つ目は先ほど申し上げたように、もうすでに恵みが与えられているということです。律法守らないと恵みを受け取れないわけではないのです。

そして、二つ目の理由は、「成功」という言葉は単純な成功、サクセスのことを言っているわけではないということです。「成功」という言葉から安っぽいご利益主義(または応報神学)がイメージされるかもしれませんが、これはもともとのヘブライ語を見ると、「賢さ」という意味を持つ言葉です。

英語の聖書(English standard version)を見ると、確かにここは”may have good success”「大きな成功を得られるだろう」と訳されていますが、同時に脚注が付いており、”Or may act wisely”「『賢くふるまうことができるだろう』とも訳すことができる」としっかりと書かれています。

このように、ここで言われている成功とは、賢くあることなのです。では賢さとは何なのでしょうか。箴言1:7にはこのように書かれています。「主を畏れることは知恵の初め」。聖書において、知恵とは主を畏れることなのです。そこで改めてヨシュア記1:7を見たいと思います。「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」。ここでは、律法から逸れなければ、あなたは賢くあることができるということが言われています。律法から逸れないということは、つまり、御言葉から離れないということです。御言葉から、主から離れなければ、あなたは賢くあることができる。つまり、ヨシュア記1:7は、箴言1:7と同じことを言っているのです。主から離れないことが賢さであり、それこそが人間の成功なのです。成功とは、財政的に成功するとか、高い地位に上り詰めるということではなく、主と共にいることができる、そのことが成功なのです。

8節には、「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」とあります。律法を昼も夜も口ずさむとは、御言葉から常に離れずにいるということです。ここでも、主から離れなければ、あなたはどこにいても賢くあることができるという、7節と同じメッセージが繰り返されています。

そして9節には、前回に引き続き、あなたがどこに行っても主は必ず共にいてくださるという約束が語られます。主の方から人間を離れることは決してありません。この約束があるからこそ、わたしたちは強く雄々しくあることができるのです。

主と共に生きることができるという「賢さ」、「成功」が取り去られることはありません。わたしたちがどこに行こうと、主が必ず共にいてくださるからです。この主に信頼し、わたしたちも御言葉を昼も夜も口ずさみ、主から離れない賢い者となりたいと思います。

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